これは飽く迄も主語を私に限っての話だが、私は不幸なときの方が面白い。幸せになるとつまらなくなる。……誤解を恐れず些か強い言葉で始めたが、まず、私は別に厭世的な立場で話をしたいわけじゃない。 追い詰められている状況というのは部外者から見ればそれはもうめちゃくちゃ面白いもので、されば自分も追い詰められて藻掻き苦しんで必死こいている時の方が、断然人から見たとき、ひいては自分で見ても面白みがある奴に仕上がっているだろうと考えたわけだ。実際、自分でもマルチタスクであたふたしている己は非常に滑稽で愉快だと思う。 社会では心が凪いで平穏無事でいる状態を最も良しとするような風潮があるが、それは平和を願う人々のひたむきな想いの結晶であると慈しむべきなのか、将又皆ユーモアを享受する余裕が無いのだろうと嘆くべきことなのか。 ただここで改めて誤解されたくは無いのだが、不幸自慢のことは全く面白いとは思っていない。不幸を自慢出来る状態というのは、目前のパフォーマンスに集中出来ず他と比較する隙を与え、寧ろ没頭出来ずにシラケさせてしまうからだ。ここに同情の余地を与えるのは興醒めというもの、まったくの第三者だからこそ面白くなる。 自分の不幸を魅力に出来る者は、その世界に没頭させる力を持つ。乗り越えようと必死になっている最中か、乗り越えた後でそれを成長の糧にしているか、どちらにせよ目を奪う輝きがあるだろう。 私は自分をおかしな人間(人間ではないというツッコミは置いておいて)だと思っているが、それは別に数奇なことをしているだとか、自己能力を過信しているだとかではない。結論、私だけが、私の人生の被害者であるからだ。そして常に自分の生涯に向き合って、一生懸命に生きているとはっきり言えるからだ。 こんな事で何をそんなに悩んでいる? みたいなことを必死こいて考えて全力で向き合って、バカみたいに真剣に取り組んで、そうやって自分の心身を削って生きている。生涯のありとあらゆる刺激を、真正面から受け止めている。だから面白おかしくなれる。ぬるま湯に浸かっている自分は面白くない。そういう自分は己にだけ留めて、ひとりプライベートでだけ発散させておけばいい。そうさ、そんな必死なのはバカげているとも。だから面白いんじゃないか。 毎日大なり小なり穏やかに和やかに過ごし続けること──それが悪いことだとは決して思わない。寧ろ喜ばしいことだ。そう、喜ばしいことだが、定期的に自分で自分に冷や水を浴びせて刺激を与えてやらないと、いよいよ本当につまらない男になってしまうような気がする、という私自身の危機感もまた然り。これは誰が悪いとかではなく、ただ何かしらを生み出し続けないと気が狂ってしまう私の憐れで愛おしいサガだ。 私は良くも悪くも行動力に長けていたが、それ故に性急で極端な結論を出して破滅に向かうことも少なくはない。それを防ぐ為に周囲から「心が凪ぐ状態」を目指すよう促されたことも少なくはなかった。しかし、それを続けているとどうしたことか、私は己が生きている意味がわからなくなる。これは懐疑的なニヒリズムではなく、不条理を憂う悲愴でもない。ニーチェやカミュといった思想家とも少し違う。 幸せなことを堕落だとは思わないよ。ただ、ただ、幸せで満たされると、こちらを慮った優しいものばかりが与えられることが相対的に多くなる。それによって、自分が与えるためのインスピレーションや機会が縮小してしまうことを、いち発信者の立場として危惧しているというだけの話だ。 私は今、人としての幸せを真正面から真剣に受け止めている。それ故に、この日常と己の双方をどう保つか、そんなことで頭がいっぱいなんだ。 そう、そういうことさ。この投稿をした意味。結局はこうして思想に溺れて藻掻いている私の姿が、一番滑稽で面白いということだよ。 |